コロナが明けても、ベトナム——特にハノイではマスクが街の風景の一部だ。
初めてこの国を歩くと、まず感じるのは湿気でも熱でもなく、空気の濃さと排ガスの匂い。遠くの景色が白く霞んで見える。「天気が悪いのかな」と思っていたら、それは霧ではなくスモッグ。
それが、この街の“日常の空気”だ。
ハノイの空気はなぜ白く霞むのか

ハノイの空気が白く見える背景には、バイク排気と気候・地形の二つの要因が重なっている。
バイク排気が空気を濃くする理由
ハノイの朝。通りを埋め尽くすバイクの群れが、一斉に解き放たれたように走り出す。市内では登録車の約8割がバイクだ。
朝夕には数百万台が走り、その排気がPM2.5(髪の毛の30分の1ほどの大きさ)となって、朝の空気をさらに濃くしていく。
地形と気候が汚染を溜め込む
土地的にも、ハノイは紅河(ホン川)に囲まれた低地にあり、湿度が高く風が抜けにくい。冬になると地上が冷え、上空が暖まる「気温の逆転層」ができ、空気が滞留する。
朝になると街全体が白く包まれるのは、そのせいだ。
冬のハノイは特に空気が悪化しやすい。12月から2月は風が弱く、湿度が高く、汚染物質が地上に留まる。
観光のベストシーズンとされる乾季と重なるため、この時期の旅行には空気対策が欠かせない。
ベトナム都市部の大気汚染状況(ハノイ/ホーチミン/ダナン)

「もうマスクなんて必要ないよね」と思って来た人は、たぶん数時間で考えを改める。
ベトナムでは、マスクは病気を避けるためではなく、街の空気と共に生きるための道具だ。実際に多くの人がコロナ前からずっとマスクを着けていた。
2025年2月12日午前8時15分。ハノイの大気質指数(AQI)は234を記録し、一時「世界で最も空気が汚い都市」と報じられた。
平均PM2.5濃度は45µg/m³。世界保健機関(WHO)の基準値(5µg/m³)の約8倍にあたる。
ホーチミンでは年間を通じて比較的穏やかだが、渋滞時にはAQIが100を超える日もある。ダナンは3都市の中で最も空気が澄んでおり、海風が街を洗い流してくれている。
- ハノイ: AQI平均 140〜170(時に200超え)
- ホーチミン: AQI平均 80〜110(渋滞時上昇)
- ダナン: AQI平均 40〜60(良好〜やや普通)
- 日本: AQI平均 48(PM2.5濃度は8µg/m³台)
PM2.5は肺の奥深くまで入り込み、喉の炎症や喘息の悪化を引き起こす。
UNICEFの報告では「ベトナムの子どもの約9人に1人が呼吸器疾患のリスクを抱えている」とされている。筆者も喘息気味だが、ベトナムでマスクを外して過ごした後は、帰国してもしばらく気道が狭く感じられた。
旅行者が気をつけたい空気対策とマスクの選び方
ベトナム旅行では、気候よりも“空気対策”を意識しておきたい。特にハノイは季節で汚染状況が大きく変わる。
おすすめの空気対策
- N95/KN95など高性能マスク
→PM2.5を最も効率よくブロック - のど飴と水のボトル(乾燥対策)
→喉の粘膜が汚染物質で乾燥しやすい - 空気清浄機付きホテル、または換気しやすい部屋
→室内滞留のPM2.5対策として効果大 - 渋滞時間(朝7〜9時/夕方17〜19時)を避けて移動
→AQIが朝夕で急上昇する
長期滞在なら、空気清浄機付きの部屋を選ぶのがおすすめだ。駐在員の多くは部屋探しの際に「エアフィルター」「窓の向き」を確認する。これだけでも日々の体調が大きく違う。
普通のマスクではPM2.5を防ぎきれない。それでも、少しの対策で喉の痛みも疲れ方も変わってくる。
現地でもマスクは十分調達できる。布製、デザインマスク、N95規格まで種類は豊富で、10枚入り20,000〜30,000VND(120〜200円)ほど。
現地の人にとってマスクは感染症予防ではなく、「呼吸を整える習慣」だ。
ハノイ・ホーチミンで進むバイク規制と公共交通の拡大

バイク規制とEV化のロードマップ
ハノイやホーチミンの空気問題は、もはや個人の努力だけではどうにもならない。政府も本格的に対策を進めている。
ハノイでは2026年7月から中心部へのガソリンバイク乗り入れが禁止予定。2030年までに市内バスの半分、タクシーのすべてをEV化する計画もある。
ホーチミンでは高排出ガソリン車の制限や、配達・タクシードライバー約40万人の電動化支援が検討中。2025年末までに配達バイクの30%、2029年に100%電動化を目指すロードマップも発表されている。
こうした動きは単なる「環境対策」というより、都市全体の呼吸を作り変える試みだ。
メトロ・EVバスなど公共交通の整備
さらに、政府は公共交通機関の整備も加速させている。ハノイではメトロの延伸が進み、バス網の強化やEVバス導入も動いている。空港まで直結するメトロ路線も計画されており、将来は旅行者の移動の選択肢が大きく広がる見通しだ。
まだ「バイクの街」ではあるが、移動手段が多様になれば、大気汚染の負担はゆっくり軽くなっていくはずだ。
渋滞や騒音の軽減、健康被害の緩和、そして静かな街づくり。少しずつではあるが、ベトナムの空気は変わりはじめている。
公共交通が本格的に普及すれば、バイク依存が減り、大気汚染の構造そのものが変わっていく可能性が高い。
ベトナムの空気と暮らしの現在地(まとめ)

ベトナムの空気は、人々の暮らしと切り離せない。バイクの排気も、料理の香りも、街のリズムの一部だ。
マスクはその空気と折り合うための道具。コロナの後も、ベトナムではそれが日常を守るマナーとして続いている。
滞在中の爪の黒ずみも、帰国後の息苦しさも、すべてこの国にいた証だ。