初めてハノイやホーチミンの街角に立つと、誰もが思う。
「これ……交通ルールあるの?」
縦横無尽に交差点へ突っ込んでくるバイク、バイク、バイク——排気音とクラクションが混ざり合い、街全体がひとつの巨大なエンジンのように唸っている。
歩行者は優先されない
歩行者信号? ある。けど誰も見てない。
クラクション? 鳴らしてるけど怒ってるわけじゃない。
「お先に」
「そこ行くね」
「気をつけてね」
——ここではクラクションが言語なのだ。
日本では「歩行者優先」という弱者が優先されるルールがある。でもベトナムでは真逆で、「速く動くもの」が優先される。さらに車体が大きいほど、その優先度は上がる。
バスが近づけば道は自然に割れ、バイクは流れを変え、歩行者はその隙間を縫うように進む。そう、ここではスピードとパワー——強者こそがヒエラルキーの頂点にある。
ベトナムの道路を安全に横断する方法
観光客が最初に直面する最大の試練——それは「道路を渡ること」だ。もちろん、歩行者信号があれば守るに越したことはない。
だが、信号のない交差点では、待っていても永遠にその瞬間は訪れない。立ち尽くすあなたの目の前を、無限に湧き出るバイクの群れが流れていく。
それでも現地の人は笑いながら言う。「怖がらないで、ゆっくり歩けば大丈夫。」

コツは二つ。止まらないこと、そして相手の目を見ること。
一定の速度で歩き続けると、バイクは自然とあなたを避けていく。決して走らず、決して引き返さず。ただ、左右を確認しながらゆっくりと前へ進む。運転手たちは動く物体の“予測アルゴリズム”を頭の中で走らせている。AIでも真似できない精度だ。
そしてもう一つ——アイコンタクト。
相手の目を見ると、向こうもこちらを見返す。その瞬間、「ボクがこっちに行くから、キミはそっちね」という無言の契約が交わされる。命を預け合う、ほんの数秒の呼吸。それは奇妙で、どこか美しい瞬間だ。
手を前に出し、自分の存在を示すのも有効だ。まるで見えないバリアを張るように、運転手たちはその動きを感じ取る。
できれば誰かと並んで渡るといい。その瞬間だけ、見知らぬ人とも呼吸が揃う。誰も言葉を交わさないけれど、奇妙な仲間意識がそこに生まれる。
この国では、誰もルールに頼らない。全員が危機感を共有し、互いの動きを読む。その緊張感が、むしろ秩序を生んでいる。
ベトナムの道路は、無数の意識が織りなす“集団知能の海”なのだ。
- 止まるな。リズムを乱すな。
——止まった瞬間、あなたは“障害物”になる。 - 目をそらすな。
——視線を交わせば、彼らは進路を修正してくれる。 - スマホで撮影しながら渡るな。死ぬ。
——映えるより、生き延びよう。 - 退かぬ、媚びぬ、省みぬ。
——そんな気概でなければ、この国の道路は渡れない。
ベトナムで道を渡ることは、命を失わないための訓練であり、同時に、他人を信じる練習でもある。
無秩序で危険、でも実は“自己組織化”している
親子四人が乗ったバイクや、家具を山のように積んで走る車。そんな“ありえない”光景が、ここでは日常だ。誰も止めず、誰も怒らない。それでも不思議と、ぶつからない。
ベトナムの交通を観察していると、不思議な秩序が見えてくる。誰もルールに従っていないようで、実は感覚で呼吸を合わせているのだ。
右折する車は左から突っ込んでくるバイクを察し、バイクは歩行者の動きを読み取る。その一瞬のアイコンタクトが、信号の代わりになる。
「みんな生きたいから、ちゃんと避ける。」現地の人のこの言葉が、すべてを物語っている。
慣れてくると、この混沌が妙に心地よくなってくる。「誰も守っていないのに、みんなぶつからない。」そこにあるのは、人と人の“暗黙の調和”だ。
ここでは、ルールよりも信頼。マナーよりもリズム。ベトナムの交通は、信頼と恐れのバランスの上に成り立っている。
互いを信じ、互いに警戒する。だからこそ、誰もが動ける。この“信頼ベースのカオス”こそ、社会そのものなのだ。
まとめ|危機感と信頼がこの国のルール

ベトナムの交通を見ていると、ルールとはなんなのかを考えさせられる。そして、秩序とは外から押しつけるものではなく、人と人の呼吸の中に生まれるものだと気づく。
いくらルールでがんじがらめにしても、それぞれがルールを過信して危機感を失えば、逆に危険だ。
信号よりもアイコンタクト。
マナーよりもリズム。
そして、危機感と信頼こそがこの街のルール。
ベトナムの道路は“命のダンスフロア”。今日もホーンがリズムを刻み、人々はその上で、笑いながら生きている。