ベトナム|侵略と紛争の歴史 ― 何度倒れても立ち上がる国、日本との不思議な縁 ―

2025.10.26
文化・歴史

― 何度倒れても立ち上がる国、日本との不思議な縁 ―

ベトナムという国を語るとき、いつも浮かぶのは「抵抗」と「融合」という二つの言葉だ。

千年の支配を受けても、決してその魂を手放さなかった人々。奪われても、学び、受け入れ、そして自分の色に変えてきた。

そのしなやかさこそ、いまのベトナムを形づくる原点だ。この国の歴史を辿ると、そこには“生き延びる知恵”と“友情の記憶”が静かに息づいている。


千年の支配を越えて(1010〜1400年代)

ベトナムの歴史は「中国の支配」との闘いから始まります。紀元前からおよそ1000年、ベトナムは中国の支配下にありましたが、1010年にベトナム最初の王朝である李(リー)王朝がハノイに都を置き独立を宣言しました。

1200年代には同じくベトナムの陳(チャン)王朝がモンゴル帝国の三度の侵攻を退け、「どんなに強大な敵にも屈しない」という民族の誇りを打ち立てます。

ハノイのタンロン遺跡や文廟を歩けば、当時の知恵と気骨を感じることができます。文廟は1070年創建の東南アジア最古級の大学。文廟の庭には、昔の学者たちの名を刻んだ石碑が並んでおり、武ではなく学問で国を支えた人々の誇りが、今も静かに息づいています。

やがて、国を取り戻したベトナムは、さらに南へ歩みを進めます。そこに待っていたのは、また新しい文化との出会いでした。


南へ、そして多文化の香り(1400〜1600年代)

13世紀のモンゴルの侵攻を退けたあとも、ベトナムの試練は終わりませんでした。1407年、今度は中国の明(ミン)王朝が侵攻し、国は再び支配下に置かれます。

しかし、わずか20年後の1428年、ベトナムの英雄レ・ロイが明軍を打ち破り、レ王朝を建てました。人々は再び独立を取り戻し、今度こそ自らの手で未来を切り開こうとしたのです。

この時代、ベトナムはさらに南へと領土を広げていきます。その先にあったのが、今の中部ベトナム――ダナンやホイアン周辺に栄えたチャンパ王国。海に面したこの地は、交易の風が吹くたびに新しい文化を運んできました。

インドの香りをまとったこの国の宗教や音楽、建築は、今もベトナムに静かに息づいています。

中部のミーソン聖域に残る赤レンガの塔は、チャンパの祈りの跡。風雨に削られながらも崩れないその姿は、まるでベトナムの歴史そのものです。

外の文化を受け入れながらも、自分の芯を保つ——。この力はのちに西洋との出会いにも通じていきます。


王の都と西洋の影(1802〜1940年)

1802年、ベトナム最後の王朝である阮(グエン)王朝が成立し、都は中部フエに置かれました。王宮を囲む堀、朱の門、繊細な瓦。そこはかつてベトナム文化の中心でした。

しかし19世紀に入ると、ヨーロッパ列強の波が押し寄せます。フランスは「文明化」の名のもとに植民地化を進め、王朝の威光は次第に失われていきました。それでも、人々は抵抗の火を絶やしませんでした。

ハノイやホーチミンの街には、今も当時の影が残ります。白いバルコニーの洋館、石畳のカフェ。それらは支配の象徴であると同時に、異国文化を自分の色に染めたベトナムの強さの証です。


日本との出会い、そして残った人々(1940〜1950年代)

第二次世界大戦中、日本軍はフランス領インドシナに進駐します。ベトナム人にとって日本は、侵略者であると同時に「白人支配からの解放者」でもありました。

戦後、フランスが再びベトナムを支配しようと戻ってきたとき、多くの日本兵が日本への帰国を拒み、ホー・チ・ミン率いる独立勢力「ベトミン」に加わります。

彼ら日本兵は武器や医療、通信などあらゆる面でベトナム人を支えました。中部クァンガイ省では、日本人教官による士官学校が設立され、のちの戦争指導者たちを育てました。

ホーチミン郊外のホクモン地区には、かつて「無名の日本兵の墓」がありました。村人は今も“日本人の勇士の墓”として祈りを捧げ続けているといいます。

豆知識:
日本の敗戦を知っても帰国せず、ベトナムの独立を支えた日本兵は600〜900人にのぼります。武器の扱いを教えた者、通信を担った者、医療に尽くした者。その中の一人、石井卓雄少佐はゲリラ指導者として戦い、命を落としました。彼を讃える碑は、かつてサイゴンに、いまは香川県に静かに残されています。

独立、そしてまた戦い(1945〜1975年)

1945年、ホー・チ・ミンがハノイのバーディン広場で独立を宣言。しかしフランスが戻り、第一次インドシナ戦争が勃発します。北部の山岳地帯では、ラオス国境に近いディエンビエンフーなどでベトミンとフランス軍の激しい戦闘が続きました。

1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撃退。だが国は北緯17度線を境に南北に分断され、再び戦火が広がります。

北は社会主義を掲げ、南はアメリカの支援を受けて対立。共産主義の拡大を恐れたアメリカが本格的に介入し、長く悲惨なベトナム戦争へと突き進みました。

十年以上に及ぶ戦いの末、1975年、北ベトナム軍がサイゴンを制圧し、長い戦争が終わりました。

クァンガイのソンミ村では1968年、504人の民間人が犠牲となる虐殺事件が発生。現在は記念館が建ち、静かな祈りの場となっています。

けれど戦いの果てに、人々は悟ります。壊すよりも、築くことの方が強いのだと。


ドイモイと新しい友好(1986年〜現在)

1986年、ベトナムは「ドイモイ(刷新)」政策を打ち出し、経済の自由化へ舵を切ります。かつての貧しい国は、いまやアジアでも屈指の成長国。その復興を陰で支えたのが日本でした。

インフラ整備、教育、医療、文化交流。日本はベトナムにとって最も信頼できるパートナーのひとつになりました。

2023年、両国は関係を「包括的戦略的パートナーシップ」に格上げ。戦場で交わった縁が、未来を築く絆へと変わっています。

ホーチミン市中心部の「リトルトーキョー」では、寿司屋の暖簾が揺れ、ベトナム人が日本語で挨拶を交わします。数十年前の戦火の時代に、この光景を想像できた人はいたでしょうか。

豆知識:ドイモイ政策
社会主義体制を維持しながらも資本主義的な市場経済と対外開放を推進する経済政策。

終わりに

ベトナムの歴史は、決して一直線ではありません。侵略と抵抗、分断と統一、苦しみと希望。その複雑な軌跡の中で、日本もまた静かにその一頁に関わってきました。

名前の残らなかった日本人たち、そして彼らを今も敬う人々。その間に流れた“無言の友情”こそ、この国の底に今も息づくもう一つの物語なのかもしれません。

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編集者

ベトナム在住の現地調査員。街の息づかいと現地のリアルな声をお届けするリポーター。

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